細木数子の六星占術☆無料占い2013年(平成25年 )

細木数子(ほそきかずこ)の無料占い情報と、あなたの全体運、恋愛・結婚運、財運、金銭運、相性など細木数子先生の六星占術で占ってみませんか?六星占術の宿命大殺界の説明や、細木数子さんの料理レシピ、細木数子さんのあなたに幸運を招く本を紹介していきたいと思います☆彡
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細木数子さんの六星占術 結婚の質問
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細木数子さんの「六星占術」で結婚相手や結婚日を決めた方はいますか?



私が以前読んだ四柱推命の本では本人にとって食神に当る日に結婚すると良いて書いてありました。

調べたら私の結婚式の日は偶然食神に当る日で夫にとっては偏財の日でした。これはどっちにとっても○だったんです。ですが結婚年は絶年だったんです。いろいろ悩みが起こった時「自分は絶でスタートしたからこんな思いするのかなぁ?」と嘆いました。


絶の年にスタートした結婚は絶になると言われてたんですからね。細木数子さんが大殺界がどうのと言い出す前から空亡、絶、傷官の年に始めた結婚は不毛に終わると 主張する占い師さんんがいたわけです。だけど「こういう年にスタートしたから駄目なのよ」で片付けられるからかもしれません。


大殺界で結婚してる人結構居ますよね。美智子皇后がそうです。また皇太子さまも秋篠宮殿下もご本人の大殺界で結婚しておられます。


他に何人も大殺界で結婚してる人知ってますけどいろいろですね。
幸せで順調な人も結構沢山います。
細木数子さんがあらわれる以前に算命学の和泉宗章さんが天中殺の本を出し大ベストセラーになったんです。
それで天中殺の結婚はよくないと言われ出したんです。
実際天中殺の本が出てからというもの「自分は天中殺に結婚してしまった」と嘆いて自殺した人が続出したんです。


それ以前の人は天中殺を知らないし天中殺無視して結婚してました。
私が習った先生は「入籍日とか式日とかは全然関係ない。二人が性的に交わった日が結婚日なのである」と主張しておられました。
私もいろんな人と出会って聞いてみたりしますが、悲惨な状態に居る人って大殺界のときも達成の時も立花のときも全部悲惨です。

「いつもいつも悪い時だらけでいつが一番悪かったかわからんほどずっとよくない」ておっしゃたりしています。
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| 細木数子 質問コーナー Q&A | 17:52 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP
細木数子は今、何してますか?
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細木数子は今、何してますか?


細木数子は昭和13年4月4日、東京都渋谷区の円山町に、8人兄妹(三男五女)の四女として生まれた。
小学一年のころに父を亡くし、経営していたバー「ロマンスクラブ」(後に「南海」→「千代」と改名)を、「娘茶屋」というおでん屋に替えて、母親と女姉妹5人で営む。細木数子も13歳のころから店の手伝いをしていたという。
成徳学園高校(現・下北沢成徳高校)に通っていた16歳のころにミス渋谷に選ばれる。店の常連客がタバコを買うと付いてきた投票券を使って投票してくれた らしい。17歳になると高校を中退し店の手伝いと客のチップを貯めていた金をもとに喫茶店「ポニー」を開店する。しかしわずか半年で売却。
その資金をもとに1957年には新橋駅近くにクラブ「潤」をオープン。翌年には売却し成城学園駅前に子ども洋服店「バンビーノ」を開店。翌1959年には銀座にバー「かずさ」をオープン。同じ年静岡の老舗の一人息子と結婚する。(後に離婚)
この1957年〜59年の3年間細木数子にとって大殺界の期間だった。
1961年になると、銀座にバー「だりあ」オープン。「かずさ」はクラブに。64年には赤坂にディスコ「大使館」オープン。翌65年には世田谷に自宅を新築。
1970年には赤坂にクラブ「艶歌」開店。絶頂期を迎えるも同じ年に10億円の詐欺に引っ掛かり自宅も店も抵当に取られる。
細木数子が占いに興味を持ち始めたのは、この人生のドン底の時期である。赤坂の豊川稲荷で占い師にみてもらったのがキッカケだという。しかし本人が「占い で人生は変わらない」と言っているとおり、このドン底から救ってくれたのは占いではなかった。彼女を救ったのは、自身の天才的な商才だったのだ。1972 年に債権者を説得して再開した赤坂のクラブ「艶歌」は大繁盛し75年には借金をほぼ完済する。そして、同年にディスコ「マンハッタン」をオープン。ここで も大儲け。
1977年細木数子は当時数億円の借金を背負っていた歌手の島倉千代子の後見人となる。
しかし、なぜ細木と島倉は結びついたのか。それには、暴力団「二率会」の元相談役だった堀尾という人物が関係している。細木は堀尾との関係を「夫婦以上、親子以上」だと語っている。2人の関係を否定したことは一度もない。
細木によれば77年に債権者に追われて島倉が泣きついたのが、堀尾の知人だったという。この知人から相談を受けた堀尾が、自らを担保に1億5000万を 作って債権者に返済した。そして島倉の興行権を手に入れた堀尾と細木は、芸能プロダクション「ミュージック・オフィス」を設立。細木数子は「光星龍」とい う名前で社長に就任する。島倉は、毎月数百万円ずつ返済することになった。彼女が占い師としてデビューするのは、島倉との騒動から2年後、1982年のこ とである。
細木数子がよく書いている「長年にわたり、中国古来の算命学、易学などを研究した結果、六星占術を独自に編み出した」という言葉からは、いかにも前々から 計画性があって占い本を出版したのだとも思えてしまうが、実は出版社社長の助言の結果生まれた、というのが真相だったようである。
1983年になると、細木数子が「先生」と呼ぶ、故・安岡正篤氏と出会う。
しかし、彼女が安岡氏に初めて会ったのは1983年3月。そして氏が亡くなったのは同じ年の12月である。その間わずか9ヶ月。しかも安岡氏は、10月に病気の療養のため高野山に移されている。決して長い付き合いがあったわけではないのである。

常識で考えてほしい。普通「結婚誓約書」などわざわざ書くだろうか?
それは細木数子が自著で再三にわたり「陽明学の大家」として安岡氏の名前を出し、ハクづけに利用していることからもわかるように、「安岡正篤」というビッ グネームの妻になることは自らの格をあげる良いチャンスであり、絶対に逃すことはできないと判断したからではないだろうか。このときの細木数子は、とにか くなりふり構ってなどいなかった。結婚誓約書では、翌年の4月に籍を入れると書かれているにもかかわらず、それを無視して半年も前の10月に婚姻届を提出 したのである。
そして11月9日には、「婚姻通知」を内容証明付きで安岡家に送りつけた。
これに驚いたのは安岡家側だ。すぐに安岡氏本人に確認を取ると、2日後の11月11日、細木数子に反論の手紙を内容証明付きで送り返した。「同先生に確認 を求めたところ、先生は婚姻届が提出された当時も現在も、旧姓細木数子様と婚姻する意思は全くないとの御返事でした。なお、同時に同無効確認の法的手段を 準備中です。したがって(中略)安岡正篤先生の妻として認めるわけには参りません」 (『週刊文春』1983年12月22日・29日合併号より)

京都に家と店もっているはずです。自宅は太秦村の駅ひとつ手前の花園駅からもみぢ家本館高雄山荘行く途中にあります

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